「集中力」とは “好奇心” があれば無意識に発揮される力。大人になってようやく分かるファーブルのかっこ良さとは【大竹稽】
大竹稽「脱力の哲学」4 〜集中力の正体〜
◾️多くの人には無価値でくだらないものが、とても魅力的に見えていたファーブル
集英社から翻訳されている『ファーブル昆虫記』から冒頭を紹介しましょう。
「あれこれ語りあいながら、クサニワトコやサンザシにふちどられた小道を行くと、そこにはすでにキンイロハナムグリが満開の繖房花の上で、苦味のありそうな芳香に酔いしれていた。これから私たちは、レ・ザングルの砂地の高台まで、見にいくところだったのである–––スカラベ・サクレがすでに姿を現しているかどうか。そうして古代エジプトにおいては世界の象徴であった糞球を転がしているかどうか」
ご覧の通り、ファーブルにとっての世界は、これほどまでに広く、彩り鮮やかなものだったのです。「虫の観察」に集中するファーブル。はたして、ファーブルにはどんな「集中力」が備わっていたのでしょうか?
「虫」を手がかりにしましょう。
まず、虫はどこにでもいます。現代の都会はいざ知らず、ファーブルにとっては身近にどこにでもいるものでした。
この「どこにでもいる(ある)」が重要です。目立たないものには、なかなか、わたしたちの意識は向きません。だれだって、珍しくてキラキラ輝くものに意識が向きます。いっぽうで、道に落ちている石塊など、たいていの人には、視界に入っていたとしても見えていません。目に留まっていても、意識には留まっていないのです。
意識というものは、外部からの刺激に反応し、動き始めます。だから、刺激を待つような姿勢もありえます。「義務感」や「切迫感」も、刺激の一種です。しかし、ファーブルの昆虫観察はこのような「待ち」の集中ではありません。ここに「好奇心」が働くのです。
ポイントが二つあります。
まず、彼は多くの人が見逃してしまうことに集中していた。多くの人には無価値でくだらないものが、とても魅力的に見えていた。これこそ「好奇心」のパワーです。そしてファーブルは自らの「好奇心」に素直だったのです。